ある日曜日の午後、家族連れのお客様が来店した。父と、母と、サッカー選手になることを夢見る高校生くらいの息子さんだ。注文されたコーヒーを目の前で淹れ始めると、息子さんはその様子を食い入るように見つめた。そしていくつか質問をしてきた。驚くことに彼は一目見ただけで、僕のドリップスタイルの核心を突いて来た。その観察眼や瞬発的な分析力は、恐らくプロとして求められるスキルなのかも知れないな、と感じた。ドリップを終えた僕に、彼は「どうやって淹れ方をマスターしたんですか?」と単刀直入に聞いて来た。何かの参考になればと思って、僕は当時のことを思い出しながら話し始めた。
一介のサラリーマンだった僕がカフェを開業しようと決めた当時、まず思ったのは「コーヒーの淹れ方をちゃんと覚えなきゃ!」だった。当時はドリッパーこそ持っていたものの、コーヒーの事を何も知らないシロウトだった。そこで道具が必要と思い、手動式コーヒーミルと安物のドリップケトル型ヤカンを買ってきた。次に“ちゃんとした”コーヒー豆を買おうとネットで検索すると、隣町に良さそうな自家焙煎店を見つけたので早速買いに行った。
店は手前に焙煎機スペースと豆販売コーナー、奥が喫茶店になっていた。僕は淹れ方も尋ねたかったので店の奥へと進んだ。クラシカルな、いわゆる純喫茶の風情を持つ店で、店のマスターは長年コーヒーの世界で生きて来たご年配の男性だった。注文を聞かれ、僕は正直にこう言った。「実はカフェの開業希望者です。コーヒーの淹れ方を練習したくて、それに一番向いているコーヒー豆を買いに来たのですが…。」緊張しながら尋ねた僕に、マスターは静かに答えた。「君はどれが良いと思う?」いきなりの質問返しに、緊張は一気にピークへと達した。
店のオリジナルブレンドが目に留まった。恐らくこれがオススメに違いないと思いそう答えると、それは間違いで正解はシングルのブラジルだと言った。何故ならブラジルは世界最大の生産量で、もっとも飲む機会が多く基本となる味わいであること。またその店はブラジルに契約農家の専用畑があり、味わいのブレが少ないことが理由だった。逆にブレンドはその都度混ぜ合わせるため味わいがブレやすく、練習に向かないとのことだった。僕はその日から3ヶ月間、毎日毎日そのブラジルだけを、ある方法でひたすらドリップし続けた。
その方法とは“数値化出来ることは全て数値化する”というものだ。淹れ方のレシピは調べれば調べるほどバラバラで、何が正解か分からなかった。そこで平均的な値を出し、自分なりに一つの練習用レシピを決めた。それは湯の温度、粉の量、抽出量はもちろん、蒸らす時間、湯を継ぎ足すタイミングなど、抽出全体に渡って数値化出来ることを数値化したものだ。そして毎回同じ数値で淹れ続けた。次第に僅かな違いによる味わいのブレにも気付くようになっていった。ずっと同じ淹れ方をしたことで「淹れ方の基本」と「味覚の起点」が身に付いていたのだった。
と、まあだいたいこんな話を語った。彼にはちょっと耳の痛い話だったようだけど、帰り際に御礼を言われた。どこか高みを目指すなら、土台は広くてしっかりしている方がより高く積み上げられ、いつか手が届く。「基本が大事」といえばそれまでだけど、単純にその一言に通じると思う。人間そのものに技能が求められる世界なら、どこでもその理屈は一緒で、近道は無いのではないか。最短距離はありそうだけどね。僕はそんな中で高く積むのではなく、横へ横へと拡げている。高みを目指すのはその筋の方々にお任せしておいて、自分は基本の部分をより多く伝えられたらと思っている。例えばウチのお店へ来てくれる人々にとって、より豊かな日常が訪れるようにと。
この記事へのコメント
森宮野原
ドリップケトルの口先がカスタマイズされていて、あ、こうすれば良いのか!と参考になりました。
ほな
器具が光っています。
ほな
サーバーの木製の取っ手がよいです。