近頃は楽しい事が多かったけど、しんどい事もそれなりに多くて、ココロもカラダもちょっとお疲れな感じだ。そんな時は、ひとまず原点に立ち返ってみたい。自分にとっての原風景。子供の頃に過ごした街並み。それは極めて個人的な記憶だけれど、備忘録的に書き留めておきたいと思っていたことでもある。今回はそんなお話。
小学4年生の途中から大人になるまで、僕は神奈川県のある街に暮らしていた。そこは碁盤の目に区画された端正な住宅街で、僕はその街の小さな木造アパートの2階に住んでいた。
街からそう遠くない場所に米軍基地があった。基地に勤める外国人の多くはその中で暮らしていたと思うが、当時はドル円相場が今とは違って物価も安かったので、基地の外で暮らしている外国人もよく見かけた。街のあちらこちらには米軍ハウスと呼ばれる建物がたくさんあった。それは一般的な日本の住宅のように敷地一杯まで建築するのとは違い、大型犬と子供達が建物の周りを駆けっこして楽しめるほど余裕があり、通りに面して芝生の庭が広くとってある家も多かった。だから少し日本離れした空気感が街の中にはあった。
暖かな季節の週末には、デニムのオーバーオールを着た外国人のおじさんが、芝刈り機で庭の芝生を刈っていた。サマーベッドを広げ、上半身裸でバドワイザーを飲みながら日光浴を楽しんでいる若い外国人もいた。自転車で通り過ぎざま、「ハーイ!」なんて手を挙げてみたら「シャラーップ!」なんて言い返されたりもしたけどね。雪が降ると僕らはみんな雪だるまを作ったのに、ハウスの庭で見かけたのは雪のペンギンだった。彼らの乗る自動車のナンバープレートは、ひらがなが来る位置に「Y」と書かれていたのでYナンバーと呼んでいた。全てがウチの暮らしとは違っていた。
僕はよく空を見上げていた子供だった。飛行機が頻繁に飛んでいたためだ。そこはちょうど米軍基地を離着陸する飛行コースの真下で、かなり低空を飛んでいた。旋回気味に傾いている時はパイロットさえ確認出来る程だった。いや、僕はパイロットを見たことはないけれど、弟が興奮気味に話していたからきっとそうなのだろう。ジェット戦闘機がその高度で飛行する時、空を埋め尽くさんばかりに爆音が鳴り響いた。でもそれ以上に空は広かった。彼らの戦闘機すら飲み込んで、広くて、遠くて、豊かだった。だから僕はよく空を見上げていた。
基地の話なんてすると、いろいろなイデオロギーの問題を問われそうだけど、ここで伝えたいのはそうじゃない。誰しも必ず“原体験”があり、それは良い悪いに関わらず、その後の人生や人格形成に大きな影響を与えるものだということ。そして向き合うしかないということ、だ。
そういう意味で僕の原体験は、「女手一つで育てられ、小さな木造アパートの2階で貧乏を絵に描いたような暮らしをしていた少年にとって、米軍ハウスの青々とした芝生や基地のフェンスの向こう側に感じた豊かさは、決して手に入れることの出来ない遠い遠いもの…」という刷り込みをもたらしたように思う。実は今まで“お金自体やそれをたくさん手に入れる事はとても不浄なこと”だと誰もがそう考えている…いわば常識だと思っていた。でもそれは「潜在意識に刷り込まれた過剰な思い込み」だということを最近になって気付き、軽い衝撃を受けた。
気付けば何でもない、本当は存在しないはずの壁や限界をたくさん思い描いて、僕らは生きているようだ。
この記事へのコメント
ほな
地位協定の変更交渉が必要。
ほな
苦労されたんですね。